2008年5月14日水曜日

社会について学ぶこと

1.暗記で学べるものには限界がある

<情報を仕入れ保存すること>は社会について知ることの一部でしかない。あれこれの雑多な知識、情報を仕入れて蓄えても、それは「トリビアの泉」と変わらない。様々な事柄についての色々な情報、その相互の関係と動きが掴めないと、単なる「物知り」にしかならない。

「物知り」になることは、場合によっては受験のような作られた試験で役に立つことがあるかもしれない。しかし、それは実際の生活では生きることのない「死んだ知識」でしかないのではないだろうか。私たち人間にとって、社会についての知識・情報は、自分の存在と結びつけられたものでない限り意味をもたないのではないだろうか。

私たちは、情報を仕入れて記憶(保存)する単なる記録装置ではなく、私たちが向かい合っている社会の中に生きている存在である。私たちは、私たちの「周り」にある社会関係によって影響され規制されていると同時に、私たちの存在自身が「周り」の社会関係に対して影響を及ぼしている社会内部の存在である。私たちが社会について知るということは、私たち自身がどのような社会関係の中にいるのかを知ることであり、自分がどのような社会的に規定された存在であり、また社会に対して影響を及ぼし・働きかけうる存在であるかを知ることである。

2.対象(社会)と認識主体(自分/自分たち)との不可分性

1)何が問題か?

どんな社会事象について「事実」でも、私たちにとってはある意味を迫ってくる。それが自然現象のように見えていても、そこで人間が関われば(ex. 地震による被災)それは社会をつくって存在する人間にとっての問題、つまり社会問題になる。

自分の五感には直接に感じられない遠くの地域でおこった出来事でも、それが人間に関わる出来事であれば、なんらかの繋がりを通して自分にも影響してくる(ex.アフリカの飢餓)。直接・間接の程度の違いはあっても、それは私たちにとって、「じゃあどうするのだ」という問い、つまり問題として迫ってくる。

「だからどうした?」「自分には関係ない」という対応もある。しかし、自分がまったくの無縁で、影響も受けず影響も与えないところにいる事柄はどれだけあるだろうか。「自分には関係ない」という態度を取ること自体が、その社会事象に一定の影響を与えてしまうとはいえないだろうか。

「ではどうするか」等の問いが次に来ることも多いだろう。しかし、ここでまず気づくことは、人間は、ある社会事象についての情報「事実」に接したとき、単にその「事実」を記憶・保存するだけの存在ではないことである。殆どの人は、その情報の自分にとっての意味づけを行い、その中の多くの人は「ではどうするか」と意識する。

2)問題の原因

3)原因の解明の仕方

4)人類の知的蓄積(学問)

3.ニュースを追う

3−1)社会は絶えず動いている

社会は今この瞬間にも、私たちが眠っている間にもあたかも自然現象のように絶えず変化し動いている。その「最先端」に私たちはニュースで接することができる。もちろん、日々の個々人の経験も一つ一つの社会事象である。しかし、社会についての理解を深め広げるためには、単に自分の個人的経験の圏内に注意関心を留めていてはならない。


3−2)追っかけ

就職試験の間際になって「一般常識」「時事問題についての知識」を短時間で仕込もうとする人がいる。そのための対策本まである。しかし、その程度のことは、毎日あるいは二日に一回、ニュースに注意していれば、いわば自然に身に付いてしまうものだ。試験の直前に「時事問題」対策本を読むのは、終わってしまったその年のプロ野球やJリーグの一年の経過を振り返って見るようなもので、簡単に一年間の経過は分かるかもしれないが、面白くもない。

プロ野球やJリーグなら一試合一試合を丁寧に見ていなくても、時々「ああ、昨日はXXが勝ったな」とか、「二日連続に○○を使ったから、今日は▽だろう」とか、「このところ○Xは調子がいいな」くらいのチェックをしていれば大まかなことは分かってくる。丁度そんな調子でニュースに付合えば良い。初めは良くわからなくてもそのうち分かってくることは、スポーツ観戦と同じところがある。好きなチーム・選手や嫌いなチーム・選手がどうなったかに注意して追っかけていると、何となくシリーズやリーグの全体が見えてくることがある。そんなように、興味がもてる問題や人物、組織・団体の動きに注目して、ゲームでも見るように追っかけていくと、社会の動きの全体の姿が少しずつ見えてくるところがある。

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